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橋本努 講義「経済思想史」北海道大学経済学部 no.5.

毎回講義の最後に提出を求めているB6レポートの紹介です。

 

 

  伊藤綾子 12/2

  

  今回の授業は、普段から私が(他の人もあると思う)考えていることに、他のテーマよりも近かったため、楽しんで、というか自分の思っているところにリンクさせながらおもしろく聞いていた。その考えているテーマは、@宗教、A恋愛、B合理主義について、である。それぞれは切り離されているのではなく、お互いに関係している。

  まずはじめに、なるほどと思ったのが、宗教上の合理性と経済的な合理性の緊張の中にある話題のうちの一つである。「禁欲が拒否する富を禁欲自身が作り出す」というパラドックスである。つまり、お金をためて無駄使いしない禁止によって富が作られるということである。私たちの社会では禁欲によりお金持ちになってしまうのだ。ただ単純なことだが、そのお金をその人がどう使うかで考え方は変わるかもしれない。例えば、自分の進行している宗教活動のために使うなど。

  次に、「死に対する思い入れ」のところで考えさせられた。私はこれから先も死は救いであると思えないと思う。今までももちろん考えたことはない。さまざまな宗教で死は意味づけられているが、いくら死に意味があるといっても、肉体は莫大な数の原子からなっているから、死後何かがあるとは思えない。私は完全に合理的文化人で、まさに倫理的に鈍く、知識の成長に喜びを感じている。

  最後に、マックス・ウェーバーが世界の無意味化について悲観的に考えているが、私も同様である。社会が合理化されていくにつれ、無駄がはぶかれ効率が良くなっている。しかし、私はこんなに効率ばかり求めて良いのだろうかと、疑問に思う。たとえば、東京では、小・中学生の時から私立の優秀な学校に行きたがる傾向があるようだ。(札幌出身の私には実体はわからないが)そんな小さい時から選抜された子のみと付き合うというのはどうだろう・・・? いろいろな人と交わり(確かに私立でもいろいろな子がいるのだろうが、能力的に少し遅れた子と交わることはないのではないか)、自然に広い視野や認識をつけることも良いことだと思う。

  話は少しそれるのだが、私は少し前に自己啓発セミナーに誘われ、行きそうになったが周りに止められ行きとどまったことがある。その時セミナー側の友人とかなり話をした(説得された)のだが、そこの自己啓発セミナーではある金額で優れた精神を得られ、お金も一生のための投資になると言われた。私は自己啓発セミナーを真っ向から否定しようとは思わない。かえって真に本人のためになったと本人が思えるならそれも良いものだと思う。(さまざまなインチキセミナーもあるだろうが。)ただ、その友人は、「たとえば3年で得られる、あるいは5年ぐらいかかる精神の成長をたった3日のセミナーで得られる。自然に過ごすのは損だ。どうしてそれがわからないのか。」とずっと言い続けていた。彼女が言っていることが本当だとして、でも自然の成り行きの中では得られるが、3日のセミナーでは得られないものは必ずあるはずだ、と私は言った。実際にそうだと思う。経験を通して学ぶことは人間の体に強く根づくだろう。精神的なものまで合理的に手に入れる(と私は解釈した)ことは私はしたくないと思う。合理的・効率ばかりが先に立つと犠牲になるものも出てくるし、得られるはずのものが抜け落ちてしまったりするのではないか。しかし、誰しもの心の中に100%合理的が良いものではないという気持ちがあると思うので、世界がまったく無意味化してしまうことは有り得ないと思った。

 

   宇都宮謙 11/5

  

  消極的な道徳的要因に関して

  ここでの「道徳的要因」が、どれだけ耐えたか、という基準によってのみ規定されるという点、また、そもそも道徳とはいかなるものなのかという点に関して、私の見解を述べたい。

  まず、労働における量的差異を決定する要因2つのうちの1つである、消極的な道徳的要因に関してだが、この記述にあっては果たして真実を捉えているのかは疑問である。理由は、1)忍耐と勤勉は両立するのか、2)無感覚はウエイトの大きな道徳のインセンティブにはならない、の2点である。普通「忍耐」とは本来望まずに行う行為に対してもつものであり、労働に内在する「労働の楽しみ」という前提が無視されている。これはたとえ単純労働とはいえ、多かれ少なかれ存在し、勤勉という積極的な要素と結合して労働意欲をむしろかきたてるものとして、認識される。そこへもって自己の説の仮定をあてはめようとしてムリに歪んだ分析を行うのはいかがかと思われる。2)道徳がどれだけ耐えたかの指標なら、順番としては忍耐→道徳(的に望ましい状態)にいたるのが自然で、忍耐と道徳の間に無気力が入るのが相当であると思われる。初めから無気力などとはあり得ない。

  次に、道徳とは?という問題である。体格、年齢、性別が物質だというならば、道徳とは人間の内面、つまり精神に該当すると、考えられる。ここに、労働の平等化という前提が崩れる。精神の活動が、各個人では異なり、労働の量のみが価値尺度無場合にあっては、この事が重要な影響をもたらす。したがって、ここにある仮定(前提)そのものが無理であることは否めず、成立しないものに対しての反論を行うこともまた無駄だと認めざるをえない。

 

   宇都宮謙 11/29

  

  ・ 「合理的」ということについて

  辞書を調べると、「合理化」の項には以下の4つの記述がある。

  @ 無駄を省き目的の体制のために体制を改善すること。

  A もっともらしく理由をつけること。

  B 主として自責または罪の感情から免れるために、自分の考えや行動を正当化すること。

  C 労働生産力をできるだけ増進させるため、新しい技術を採用したり企業組織を改変すること。実質的には超過利潤獲得の一手段となる。

  の4つがある。rational(理性に基づく)という点では考えにくい。むしろjustification(正当化)とreasonable(道理にかなう)という2面からの考察が望ましいと思われる。

  さてこのとき、宗教上の合理性と、経済的な合理性ということに関して考えてみる。双方ともそれぞれのもつ目標――倫理や貨幣価格――に対して従うという点で、きわめて合理的であるし、またそのために禁欲、利潤最大化、というもっともらしいことを言って、自己正当化を図っている。ただし、ここでいう「もっともらしい」とは、それぞれ反対の立場に立って考えたときのもので、自分が正しいと思っている局面では、常に相手は非合理的に見えるというなかば自明の事柄を表わしている。両者は自己を解釈する時、非常に似通った手法を用いていることになる。両者の相違はどこに求められるのだろう。それは、積極性と消極性に求められ得ると思われる。それは、それぞれの目指すところの違いによる。宗教は倫理=与えられた正しいと思われる道理、であるし、経済では貨幣価格=やはり外生的でありながら量の多少によっては倫理よりは少なからず人の生活に影響を与えるものがそうである。換言するなら、倫理よりも貨幣価格の方が明らかに日々の生活を変えてゆく。(誰でもより豊かになれば、より贅沢をする傾向があるし、そうでなければ経済学は成立しない)

  いま、われわれの年収が\1,000だったとする。これが\1,200になれば可処分所得は増大することは日々の経験から明白である。豊かな時代でもアルバイトに出る学生の動機は「遊興費を得る」が主だということからもわかる。そうなれば他人との差が出来て、もし他人がより豊かな暮らしを望むのなら、ひがんだりするだろう。ここに宗教の出番がある。

  宗教の役割は、崇拝の対象でもなければなんでもない。ほかならぬ、「なぐさめ」である。「金を持つことはいけないことだ」としたカトリックは、まさにこのパターンである。金儲けをよしとしたプロテスタントも「いけない」ということを「いいことにしよう」という慰め機能の転換にすぎないのではなかろうか。

  現実の仕方のない差――金の多寡だけでなく才能の多少なども含んで――を埋めるために、仕方なく存在するのが宗教ではなかろうか。人が差を容認したとき、宗教による「救い」は扶養になり、真に自立した人間として踏み出せるような気がしてならない。

 

   小林友美 11/8

  

  「プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもあり得ない」というもマルクスの言葉が様々な影響を与えたと話があった。その例として、学園闘争があげられていた(「結婚制度は近代になってからできたものであるから廃止しよう」という名目(?)でレイプが起こったという話があった)が、それは、マルクス主義の真偽に関わらず各人に都合の良いマルクス解釈がされたからである。まさかマルクスが「レイプしろ」といったわけではなく、国家の権力→法律ex.結婚制度→(マルクス主義によれば)廃止しよう、というように自身に都合よく都合のいいところでマルクス主義を適用しているのだ。また、逆にそう都合よく扱われてしまうマルクス主義そのものに、そうされうる欠陥があるとも考えられる。

  確かに人間の考えることには、多少の欠点(客観的に見て)があっても当然と言えば当然なのだが、それを正確に解釈されようがされまいが、それを理由にレイプや殺人が起こって不幸になる人がいるとすれば、その人間の考えを公に広めることには、社会的責任がある。「だから共産党は…」あるいは「創価学会は…」というような社会的認識が存在するので、従って企業は「危ない」と思われるような宗教にかかわっているものを排除しようとするのだ。つまり、「われは語り、かくて我が魂を救えり」というのも無責任な話で、このセリフはマルクスの言ったとおりにならなかった場合は、「だから言ったのに……」と言えるが、マルクスの言ったことをやろうとした人ややった人が「失敗」をした場合、責任がある。まして、間接的に「応用」されて被害を受けた人がいたとしたら、その人にとってはマルクスは悪、あるいは損になる。

  このこと、「いかようにも解釈されてしまう」ことから、マルクスの考え方には、ヤワさを感じる。しまいには「われは語り……」と逃げてしまうのだから、「ちょっと言ってみたかっただけなの」という気がしてしまう。本当に「責任」を負う気がないのなら、マルクス主義を世に広めないでほしい。マルクスをわかってくれる人にのみ話せばよい。

  また、エルフルト綱領を見る限りでは、民間レベルまで下げたという印象ならば、最初からその部分だけを言えばいいのであって、「国家をつぶしたい」という考えは、そのごく一部の人にのみ言えばよい。基本的に、労働者を救いたいという目的が根底にあるならば、それは国家廃絶によらなくとも、道はあるはずだ。このような考え方こそ硬直的だ。一貫性と硬直性は関係ない。

 

   小林友美 11/12

  

  無理矢理ではあるが、北大生と東大生を比較して、北大生に「ナマイキ」な人が少ないと思われるのは、土地柄としか言いようがない。北海道自体のんびりしているし、道外から来た人でも「東京人ぽくない」人が割に多い。また、一方で道外人のなかにも北海道はのんびりしていると感じる人は多い(それが良いか悪いか考えるのを別として)。かく言う私も北大生であるが、それを感じつつ、北大を変えようなどとは思わない。自分がちゃんと成長していきたいように生きれば良いだけである。少なくとも自分を成長させたり守ったりすることで精いっぱいだ。他人の不幸、幸をいちいち考えていたら、自殺しなくてはならない。北大に限っていえば、北大はやはり井の中の蛙であり、北大生のレベルはたかが知れている。それに甘んじて生きて幸せだと思う人もいれば、不幸と思う人もいる。ただ、言えることは、「知らない」人よりも「知っている(わかっている)」くせに知らないフリをしたり、言わない人の方がタチが悪いということだ。それは別に北大に限ったことではなく、東大であろうと、いや学生であろうと社会人であろうと同じことだ。環境にこだわるレベルではない、どんな所でどんな生活をしようとも本質的には変わらない部分がある。

  また、良くも悪くも、すなわちマルクス主義・非マルクス主義を問わず、マルクスにこだわるのはナンセンスだと思う。マルクスを批判するかしないか、するとすればどうしてか、という議論以前に、マルクスをそこまで学ぶ意義があるかどうかが問題である。

  大学とはお金を払って学生が学ぶところであり、授業はその学生のニーズに合ったものでなくてはならない。好きか嫌いか、興味がないかよりもっと大切なのは、将来自分にとって役立つかどうかである。仕事はもちろん、結婚・育児なども含めて、社会の中で生きていく為に、(物質的にも精神的にも)必要なものを求めて、大学で学ぶ。少なくとも私はそうである。別に大学に過剰な期待は持っていないが、学生のニーズに合わせるのが大学の必要最低限無サービスである。

  これは大学の先生あるいはシステム全体について言えることであるが、大学を改革などと言っていたら、こっちの身がもたないというバカらしさがあるので、自分が社会で生きていくための成長をするだけで手いっぱいなのである。

 

   小林友美 11/15

  

  「一方で…、他方で…、」という両義性の議論では、認識までが学者のレベルだという話が合ったが、そうとは限らない。むしろ、分析したレベルの論文というのは理系的であり、文系の論文は分析かつその上に構築するものがなければ、論文としての意味がない。だからこそ、マルクス主義、ケインズ主義などというように「主義」で区別している。ただ、教師が学生に対してというときは、教師が中立的立場を取るのは当然である。とくに、生徒が小学生などである場合は、教師の中立性は不可欠である。しかし、今や大学生の20歳前後である私にとっては、判断力の根源はすでに確立されている。めったにいないが、ある先生の授業を聞いて、考え方が180度変わったと思う学生がいるとしたら、それはその学生に元々そう考える要素があったからである。今さら大学の先生の話に左右されるようでは、単に自立していない子供としか言いようがない。「学生の判断力に害を及ぼすか?」というよりは、それぞれの学生が自分の価値観(無意識であっても)を基準に同判断するかという方が適切であろう。そして、その考え方は様々であり、学生も「こういう先生もいるんだろう」、先生も「そういう学生もいるんだろう」としか、考えるほかはない。それぞれの考え方をそれ以上、それ以下と区別することは誰にもできないレベルもある。すなわち、唯物論と観念論の中間が一般的な考え方だ、という議論をもっといえば、どの種、どの次元の事柄、考え方によって唯物論的になるか、観念的になるかということである。もう一つの例を挙げるならば、マルクスが資本主義と宗教とを批判している話があったが、「労働者が……(中略)……つまり、彼の内的世界がいよいよ貧しくなり……」という一節から思ったのは、マルクスがそのように批判するのは、マルクスの時代にそういう労働者しかいなかった(あるいは、マルクスがそういう労働者しか知らなかった)からだということである。当然私も含め現代の人は、誰も当時の労働者をわかっていないが、私たちは現代の労働者は知っている。現代について言うなら、機械的な生活をする人もいれば、そうでない人もいる。それを「内的世界」が貧しい原因とする人もいれば、いない人もいる。(それを幸せか不幸かと思うのも人それぞれ)

  もし、ここで当時は現代と社会形態、制度が異なるからと反論するならば、初めからマルクスの一節を今私たちが読んでもまったく意味がないということになる。

 

   小林友美 11/29

  

  経済について知って何になるのか?

  これは、はっきり言って、人それぞれ。例を挙げてみる。例えば、私たち学生にとって、経済学を学んで得られるものは、単なる既存の知識の一部である。日米の企業比較や、リーダーシップ論など具体的に学んでみればわかるが、これらはこれまで研究されてきており、授業はいわばその教官によって手を変え品を変えた形の報告であるし、その範囲にとどまらなくてはならない。ここで北大経済学生には、ほとんど同じ条件でその知識を得る機会が与えられていることがわかるが、問題はその先である。経済学の常識的な知識を与えられ、さらにもっと知りたいと思い、研究者を目指す人もいれば、経済学とはまったく関わりのない領域で生きる人もいるだろう。しかし、本当の大切なことは、経済学に限らず、どんな学問であっても自己の人生にフィードバックできるならば、学ぶべき学問は経済でなくともよいのだ。なぜ自己の人生にフィードバックすることが大切であるかというと、それは学問が人々を成長に導く手段の一つになりうるからだ。現実に私はそれを経験してしまった。一場面でも、それを体験してしまえば、方法は判明したのだから、次からは容易にフィードバックが可能になる。すなわち、この質問は「学問について知って何になるのか?」と修正される。

  知識を豊かにする喜びがあったとしても、それよりさらにその知識同志をつなげて整理をして、マクロ的にとらえるということを知り、また更にそのマクロを知ったときの方がはるかにその喜びが優る。

  従って、学問を単なる知識の集大成と捕らえるならば、学問を学ぶ意味は喪失する。そうではなくて、その知識を用いて、一見関係がなさそうに見える知識同志をマクロ的に理解できたならば、そこで初めて自分の役に立ったと言えるのである。これは、学校の勉強が将来社会人になったとき、役に立ったか立たなかったかという分かれ目になる。

  このように考えると、マクロ的に理解できた人にとっては学問が何であっても構わない、すなわち、「経済とはなにか?」に対する解答は必要がないのである。ただし、付け加えておくと、学問は自己の成長のための手段の一つでしかなく、学問を用いずとも他のもので代用できることは十分である。また、こうなると好みで学問を選んでもその人にはまったく支障はない。

 

   小林友美 12/13

  

  ウェーバーは近代化のエートスがプロテスタンティズムだと言うが、私はそうは思わない。根本的に宗教→エートス(プロテスタンティズム)→資本主義化→エートスの消滅という歴史の構図には説得力がない。

  確かにプロテスタントという人々がいた、禁欲、「天職」というような概念を持って生きた人々がいたということはわかるが、それがエートスの主要部分であったと断言で切るのはなぜだろうか。プロテスタンティズムはごく一部であったと考える方がしっくりくる。

  西洋においては、資本家達が中心となって、やはり労働者たちは時代の犠牲者だったのだ。これは日本にもあてはまる。高度経済成長の時代に、労働者たちは少なからず時代の犠牲者だった。それは、それぞれ自分の父母、祖父母をみればわかることだ。さらに、日本において、現代もプロテスタントとは何の関わりがなくとも、プロテスタンティズム的な思想をかかえる団体は存在する。おそらくそういった団体・組織は、いつの時代も互いに関連なく損愛しているのだろう。いつの時代も禁欲を善とする人々が存在するだけだ。すなわち、「禁欲」を思いながら働いた人も中にはいた、と考える方が妥当であろう。誰もが裕福な暮らしがしたいと思うのは、まったく当然であるのだから、金銭的に上にのし上がろうとした人々や、すでに成り上がっていた人びとのいたちごっこや、一般労働者間の取引、資本家と労働者との取引、政府の介入などという社会の思惑すべてがごちゃ混ぜになって、ある意味”;人間らしい”;やり方で資本主義化が進んだのだ。

  付け加えておくと、宗教、またはあるひとつの思想をもって作られた組織は、まったくうさんくさいとおもう。その団体の思うところを本当に理解して、本心から信じているのはその団体の何割をしめるだろうか。何かにすがりたくて頼りたくてとか、他人との同調感を求めてなど、その団体にとってはよこしまとしか思えない人々はたくさんいる。しかも、その団体を「他人も幸せにしてあげよう」などとあつかましくも勧誘したりする。そんな他力本願的人間がさらに他力本願的人間をつかまえてきて、団体をふくらませて、そうではない人間も巻き込もうとするのだから、迷惑も甚だしい。それで本人が幸せだと思うなら、なにも言うまいが、そう思わない人間をそう思わせるように働きかけたりしないでほしい。禁欲するのは勝手だが、他人にそれを押し付けるのも間違いだし、その人は「自分はなぜこれをするのをやめるか?」という禁欲の理由をよく考えるべきだ。物欲が激しいのは、確かに省エネの敵であるが、自分はどれを選んでどれを捨てるかということ、その理由を考えることを放棄して他人の手に委ねるのは誤りだ。

 

   小林友美 1/7

  

  正直言って、自分のことをどういうふうに生きればよいと考えるのは難しくない。世の中に対する自分の認識がどんなにマイナスの方向であろうと、要するに類は友を呼ぶ方式で、自分がしっかり生きるしかないと言うことは誰でも言えるし、言う。

  しかし、社会と個人の関係について考えることは真剣にしたことがあまりない。せっかくなので考えてみる。

  まずミーゼスの社会論的個人主義と、ハイエク・ポパーの総体主義とを比較するならば、私は正直言ってどちらも選べない。なぜなら、ミーゼスの「社会は個人の集まりだから、個人から社会を説明できる」という考え方にも、ハイエク・ポパーの「社会がないと個人は生きられない」という考え方にも(←森と木の例より)賛成できないからである。「個人から社会を説明できる」というのは、あくまで他の社会と比較して相対的に傾向を判断するという程度のものでなくてはならず、絶対的なものではない。また、「社会がないと個人は生きられない」ということにも同じことが言える。

  ただ100歩ゆずって「一般的に」と考えるならば、どちらかと言えばハイエク・ポパーの考え方を支持する。

  ミーゼスの考え方について反論するならば、次のようにいえる。個人の集まり=社会を国家に置き換えてみると、歴史的に見ても国家権力に対して民衆の力が打ち勝ったことはほとんどなく(勝ったとしてもあくまで形式的なものにとどまり、他に権限が移動する場合が多く)、個人から国家を説明することは無理である。一部の権力者によって政治は動かされている。日本でも、安保闘争や大学闘争を振り返ってみればよくわかる。民衆は国家権力を転覆させることができず、成功したのは軍事クーデターである。つまり、「人間は行為する」ということがどんなに「アプリオリに真である」としても、その「行為」による影響や結果が意図せざるものならば、個人から社会を説明することはできない。マルクスの「社会的労働」による労働生産力の相乗効果にも通じるものなのかと思うが、一方で貧民が大勢いるにも関わらず、他方では一部の権力者によって国家は機能してしまう。個人より社会を優先するというのは、危ない思想になりがちになるというより、むしろ、それが現実であると考えるのが妥当である。当然日本も例外ではない。

  だからこそ、個人は常に政治に対してうるさく口をはさむべきである、というのが個人的な考えである。また、けっしてネガティブではなく思うが、政治に訴えることだけが革命や解放ではないとも考える。元々、生物が集団をなす場合は、それは種の保存を確保するためであり、森までいかなくとも、林がないと木は生きられないのでは。

 

   小林友美 1/10

  

  ハイエクの真の個人主義←→ミーゼスの社会論的個人主義について

  伝統や慣習を理解することが重要だというが、それは別に伝統と慣習に限ったことではない。古い、新しいに関係なく、理解したいと思うも野を理解すればよい。また、伝統や慣習をすべて排除しようなどということは、無理であろう。究極的には、人間は自己のDNA遺伝子を捨てることはできない。目くじらを立てたかどうかは知らないが、お互いこれ程極端に主張する必要はないと思う。家族が大事だと思うのなら、そうすればいいし、ある慣習をやめたいと思うならやめればよい。それらのことは、誰も強制されえないことであり、「何を基準に取捨選択しているのか?」と問われたとしても、答えたい相手にのみ伝えればよく、何の義務や強制でもない。これはたとえば、他人に「あなたはパン党かご飯党か?」と尋ねる次元の問題である。

  区切るべきレベルは、その取捨選択が他人を巻き込む場合である。たとえば、政治家のすること。民主主義国家であるならば、国民の納得のいく背景を踏まえた政治を行わなくてはならない。単純に言うと、政治家としての実力がなければ国民の支持を得られず…という状態である。この場合、政治家は一応国民の代表であるから、国民性や文化を背景にしており、外国にとって非合理に見えるようなことでも、国民の納得を得た結果、自国にとっては合理的である場合がある。(ただし、国民の納得を求めた場合に限らなくとも)とくに批判したいのは、ミーゼスの考え方である。

  伝統や慣習をすべて排除することは自律ではないと断言する。何かを排除する=何かから逃れることは自律ではない。それは強い人間ではない。弱い人間だ。私は別にすべてに立ち向かえと言っているのではなく、「ここは避けて通れない」と思うところをきちんと押さえておいて、無駄だと思うことを省けと言っているのだ。要するに当を得た取捨選択だ。

  これに関連して付け加えておくと、「自由」には2種類あるという話があったが、自由とは「〜への自由」であり、「〜からの自由」はあり得ない。「〜から」は単なる逃避だ。それなのに「自由」という名を与えるのはおかしい。

  また、私は前述の「弱い人間」は嫌いではない。ある意味では、興味があるし、魅力があると思う。私自身は「当を得た取捨選択」者でありたいと思うが、だからといって人間のタイプを上中下と区切っているわけでは決してない。人間のタイプはタテもあるがヨコにもナナメにも並べることができる。

 

   荒澤由佳 11/15

  

  両義性における価値への感受性について

  冒頭で断わらせていただくが、ここでは認識を評価へとシフトさせる価値への感受性について述べるがゆえ、小論文というよりは自己の感情の羅列に近い内容となってしまうことをお許し願いたい。

  自分にとって受け入れがたい負の要素を持つものに対しても目をそむけず、かつそれを評価することができる人というのは、確かに”;超越した”;人間であると思う。前述したことは人間ならだれしもそうなりたいと思っている人間像であると思うし、実際自分もそうであるのだが、なかなかうまくいかぬのが現実である。”;一方で……、他方で……”;というものの考え方、捉え方は自分にとって負となるものを認めると考えると困難なものであるが、その一歩手前の自分の外にあるものを認識するということは、自然な人間の成長においてみられることの一環であると思う。それは幼年時代において表れる。幼児は皆、自分を中心に据えて、行動すべては”;自分が(〜したい)……”;という考え方に支配されている。しかし年が経ち、除外に両親や友人の存在を認識するにつれ、それまではすべてが自分の思うがままであったことの中に違う考え方が芽生えてくる。これが、”;一方で……、他方で……”;という考え方、捉え方ができるということの前提かつ、第一歩となっているものではなかろうか。

  論を元に戻すと、自分にとって受け入れがたい負の要素を持つものに対しても目を背けず、かつそれを評価できる人、本当にそれができる人は思うに自分というものをしっかりもっていて、ある意味で謙虚な人間、まるみを帯びた(心に)人間であろう。大学に来て、様々な人と出会い、こんなにも人というのは十人十色なのかと感じていた今日この頃、何が正しくて何が正しくないと自分の中で判断を下すのは、今ではいとも簡単に行っていたことが、実はとても難しいということに気がついた。そのような時に、マルクスの思想を学んでいる時自分が常々痛切に感じていたことと同様のことが出てくるとは(マルクスはただ単に”;一方で……、他方で……”;と言っていたのかもしれぬが)人間とはいつの時代も変わらぬものであると感じさせられた。